以下二つの記事は、カトリック白河教会の広報誌の為に書いたものです。
2002年現在まで、3年間広報部長を務めています。これは私の信仰的側面です。

洗足式に参加して(2001年4月)

 今回初めて洗足式に参加致しました。
 聖木曜日のミサ、氏家神父様がヨハネによる福音を読まれ、イエスが最後の晩餐の席で弟子達の足を洗われた事が知らされます。
 「ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子達の足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。・・・さて、イエスが、弟子達の足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席について言われた。『私があなたがたにしたことがわかるか。あなたがたは、わたしを先生とか主とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』」
 この後に洗足式が始まり、氏家神父様が五名の参加者それぞれの右足を取って、イエスがしたように愛しみを込めて、聖水で洗われ、手ぬぐいでふかれました。私はその五名のうちにありましたので、その時足を洗っていただきました。
 それは衝撃的な事でした。足を洗われるということは、それは深い慈しみを受ける行為の様に感じられました。神父様を通して、キリストから深い愛を頂いた様に感じられました。深い愛に包まれ、そして自分の心貧しいことに気付かされました。いつの間にか心が裸にされたかの様に思われました。
 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」その言葉が、私の心に重くのしかかって来ました。お互いに足を洗い合う、そんな深い慈しみで包み合う、それが理想だと思います。しかし、それを貫くことの難しさを感じています。今まで教会に来ては気持ちを新たにしました。主に愛されている様に人を愛そう。しかし、日常生活で怠りを重ね、いつの間にか心貧しき者に帰っている。そんな事を繰り返している。足を洗われた私は、イエスにその罪に向き合いなさい、と背を押されたように感じたのです。臆病な私は、畏れを感じずにはおられません。
 洗足式はこの様に、私に大きな衝撃を与えてくれました。私はゆすられ、そして少し前に進む勇気が出てきた様に感じます。今、祈っています。「主よ、私があなたのみ旨にかなう行いが出来ますように、私の志を強めてください。」

黙想会に参加して(2002年2月)

 二月十六日のミサ後に行われた、溝部司教様の黙想会講話のお恵みに与りました。司教様のお話しは素晴らしいものでした。講話の題は「祈りについて」でした。司教様は祈りの基本を二つの言葉で説明されました。それはベラハーとアッバーです。
 ベラハーとは、感謝すること。すなわち神に感謝することです。神さまのお導きに、素直に感謝する気持ち、これが祈りの基本だといいます。イスラエルの民は、神さまのお導きによって、エジプトより救われ、四十年砂漠を彷徨った後に、約束の地にたどり着きました。この彷徨いの四十年という月日は、人に神のお導きを忘れさせる事もあったでしょう。どこに神がいるのか、今の苦しみは何故にあるのか、そう疑い、そして信仰から離れて行った人も少なからずいたと思われます。しかし、神さまはこの民に、絶えず手を差し伸べ、そして導いていたのです。
 神さまが示された、この40年の月日は私たちに、大きな流れのあることを教えています。目の前に起きるいやな事、そういう事に惑わされて、神の導きの手を見失ってはいけないと言うことです。自分を導いてくださっている神の手を見ること、それが信仰です。神さまのお導きが見えるなら、そこに感謝が生まれます。神さまに感謝が出来るということは、今ある自分の生活にも感謝できると言うことです。それは神さまのお恵みに他なりません。また、自分の周りの人々にも感謝が生まれるということです。
 カトリックのミサは、過ぎ越しの祭をかたどっています。新しい過ぎ越しを祝い、感謝が捧げられます。ミサの中では、何度も感謝という言葉が使われます。ミサはベラハー、感謝の為にあると言えます。祈ると言うことは、難しいことではないのです。今日生きている事に、神さま有り難う、そう思うこと、働くことに、食べることに、家族とともにあることに、神さま有り難うと思う、それが祈りです。神さまは人の祈りに応え、その導きの手をいつの時も差し伸べるのです。「実る程、頭を垂れる稲穂かな」これの教えるところは、祈ることの大切さでもあります。
 カトリックの神は、信じる者に手を差し伸べる、身近な存在となりました。イエズス・キリストは神を「アッバー」と呼びました。アッバーとは「とうちゃん」とか、「とうさん」と言うような、本当に身近な存在です。時には怒りもするが、決して裁いたり、罰したりすることを思っているわけではない。いつでも、手を差し伸べ、導いてくれます。だから、キリストがアッバーと言ったように、自分の祈りもアッバーに捧げる。これが、第二の基本です。祈りは、それこそ、「とうちゃん」というような語りかけなのです。祈りは神に身を預けることですが、それは「とうちゃん」の様に、身近な存在に身を預ける事と同じなのです。神は私たちの直ぐそばにいて、手を差し伸べています。だから、私たちも神をそばに感じなければなりません。「アッバー」と呼びかける、日本語であれば「とうちゃん」と呼びかける。そこに祈りの基本があります。
 この様に祈りの基本を見出す時、祈りとは難しいことでも何でもないことがわかってきます。それどころか、私たちの言葉全ては祈りに変わることが出来るのです。人と話したこと、今起きていること、それに「ありがとう」と思ったなら、それは祈りに変わります。小さな言葉、例えば「イエス・マリア」、「ありがとう」、「めでたし」それをいつも思い起こしてください。こういった小さな祈りが、私たちの生活を祈りのある生活に変えて行きます。
 私たちの先を歩く人達は、祈りのある生活をしています。忙しい生活を送れば送る程、祈りの時間を大切にしています。マザーテレサは毎日朝一時間、一人で祈りの時間を過ごしておりました。そして、大変忙しく働きました。教皇ヨハネ・パウロ二世は、毎日のミサで、福音朗読後三十分黙って祈ります。これは決して特別な事ではありません。私たちの先を歩く人達は、誰でも出来る、普通のことを行っているだけです。しかしながら、普通のことを行いながら、それを普通でないことにしているのです。
ある神学校の先生は、聖人になりたくて、とても頑張る生徒にこう教えたそうです。
・聖人になりたければ、人と遊びなさい。
・聖人になりたければ、特別なことをしてはいけない。
 祈りのある生活を送ってください。祈る習慣を作りましょう。神に感謝し(ベラハー)、神の近くにいることを感じるのです(アッバー)。家庭でも祈る習慣を作りましょう。神さまは、そうする私たちを導いてくれます。また、祈りは、神さまの眼差しを持つことにもなるのです。

戻る