私の悪魔

 世の中には天使と悪魔がいるようですが、その役割について私は次のように理解しています。天使とは私を愛し、時に奇跡などを通じて助けてくれ、私を正しい道に導いてくれる霊。悪魔とは私を快楽を餌に誘惑し、自分本位の行動をとらせたり、罪を行わせたりして私を自滅へと導いてくれる霊。

 よって、私は悪魔とは自分の中の欲望だと思いました。欲望は快楽を求めようといつも身勝手な振る舞いを要求します。例えば、飢えていれば目の前の食べ物が人のものでも盗んで食べようとし、お金がなければ人からだまし取っても得ようとします。そうして得た快楽をもし、何の良心の呵責もなく受け入れたとしたら、悪魔の誘惑に完敗したことになるのです。

 ところが、欲望は生きるために必要な本能で、生きようとすることすら一つの欲望といえなくはありません。これを単純に悪魔と決めつけたら、人は本質的に悪魔であり、それと一生闘って生きて行かなくてはならなくなります。人間の一生とはなんと憂鬱ではありませんか。

 主イエス・キリストのいう平安な生活はそんな苦労の果てに約束されるものなのでしょうか。私はもっと簡単なところにそれがある様に思えて仕方ありません。最近私は、欲望とは生きるために与えられたもので、それ自身が悪いものではないと考えるようになりました。欲望を持つことは自然なことですし、欲望を満たすことによって得られる快楽もそれ自体は神に与えられたものです。欲望も快楽もそれを満たし得ることは生きる上で必要なことで、それに問題があるとは思えません。しかし欲望を間違った方向に導く何かが悪であり、そこに悪魔がいるのではないでしょうか。

 そこで、私の悪魔とは何か?と思いを巡らせました。私が罪を犯すとき、と書くと聞こえが悪いですが、告白すれば人を疑い、怒り、時には悪口や無理なことをいうなど、度々罪を犯しています。そういう時を顧みますと、大抵いらいらしたり、興奮したりしています。そういう感情の底辺には、自分自身の中に満たされていないが為の何か鈍いものがたまっているのを感じます。その鈍いものを取り出してよく観察すると、「恐れ」や「悲しみ」であるようです。例えば、お金がなく苦しいとき、自分の無能力に悲しんだり、世の中の冷たさに悲しんだりして、そういうことへの復讐心がメラメラと燃え出します。お金を得るためには人を傷つけても何でもしなきゃいけないんだ、という気分になってきます。ふと気がつくと人を信用しない金の亡者みたいになっている自分に気がつきます。また他人とちょっと意見の相違などで言い合いになったとき、相手が自分を貶めるために何を言い出すか、あるいはやり出すかわからない恐れを感じます。その恐れが相手への攻撃心を誘い出します。やられる前に、自分を守るために先手を打っておかなければならない、という気分になります。ふと気がつくと、棘のある嫌みな人間になっている自分に気がつきます。

 しかし自分に自信や余裕があるときは、お金がなくても、ちょっと言い争いをしても、恐れや悲しみを感じることがありません。よって疑いや、怒り、悪口などが生まれませんし、何ら問題が起きるようなこともありません。実に平安にいられます。

 以上のようなことを考えますと、私の悪魔とは「恐れ」や「悲しみ」です。恐れの悪魔や悲しみの悪魔は事ある毎に私にとりついてきます。特に仕事中などは始終とりついています。また、ふとしたときにスーっと私の中に入ってきます。疲れていたり精神的に不安定でいたりすると尚更です。これでは平安な生活は送れません。反対に悲観的になったり、その反動で他人に攻撃的になったり、自分を痛めつけたり、痛めつけられたりして行くうちに、ついには自滅の道を歩むことになるでしょう。人をだましたり、脅したりして一時的に快楽を得たにしても、その行為の分他人からの復讐を恐れるようになり、一層恐れと悲しみの地獄の世界にたたき落とされることになるでしょう。恐ろしいことです。

 皆さんは私のいう悪魔が忍び込んだとき、どうされていますでしょうか。

戻る