宗教の争いと日本の宗教に思う

−何故人間は宗教的な争いを起こすのかについて−

 これは私の意見です。人間はいつも不安を抱いている生き物だと思います。自分の考え、言動、行動が本当に正しいのか、何か過ちを犯していないか、その為に危険な目に会いはしないかなどと心配し、恐れ、それが為に攻撃したりする、そんな生き物だと思います。よく言われておりますが、人間は孤独のうちに生きられない種で、他人と共同して同じ価値観念の中で精神のバランスを保たなければいられない生き物だと思います。この考え方には心理学的実験が証明を与えています。

 そんな不安の中に浮かんでいる人間心理が、「神」という絶対的存在を必要としているのです。人間の不安を全て吸収してくれる絶対者、こころの拠り所が宗教であり、神仏であるのです。万能で全てに正しい存在があって、それが我々の正しい生き方を保証してくれる。正しい価値観念、倫理、ひいては平安な生活を約束してくれる。それを求めたいが故に宗教が存在しているのだと思います。

 絶対的存在の支配下にある人間が、他の絶対的支配下にある人間に出会ったらどうなるでしょうか。この状況が異教徒との遭遇です。他の絶対的存在からすれば、当方は異質であり受け入れられない存在です。当方にしても、他の絶対的存在を受け入れることは、今まで培ってきた自分の価値観の放棄につながります。すなわち自己否定を強いられるのです。これはとうてい受け入れられることではありません。自分を否定するくらいなら相手を抹殺しよう、そう思うのが当然です。ここに壮絶な宗教による争いが発生するのです。他方は受け入れられない存在ですから、他方の崇拝する神は当方にとって悪魔です。悪魔を崇拝するような人間はもはや人間ではありません。動物より下等な存在まで貶められるのです。

 こう書くと「宗教」ってなんて恐ろしいものなんだろうと思うかも知れません。しかし「宗教心」を持つ人は、持たない人より格段に深い心の安定を持っています。絶対的存在への帰依というのは、人間にとって真理なのです。しかし、その帰依の度合いが浅かった場合、他者の絶対的存在の否定に耐えられないことになります。他宗教を否定し、迫害に至る行為は、自分の絶対者への信頼の欠如の現れともいえます。もし絶対的な信頼があれば、如何に他者が自己を否定しても動じることはありません。返ってその否定する者を哀れと感じるでしょう。キリスト教ではそれを「汝の敵を愛せよ」と言う言葉で説明します。我々の多くが信仰を持っているのに、それが如何に浅いか、利己的に解釈されているかが浮き彫りにされますね。それが真の問題なのです。

−日本人の宗教観−

 日本人は至って既存宗教に無関心か寛容です。年はじめには神道の神社に参詣し、彼岸には仏教の寺院で法要を行う。年末にはキリスト教の教会でクリスマスを祝ったりします。日本人はこれらの異なった宗教的儀式に違和感を覚えません。では日本人に宗教観がないのかというとそうでもないようです。

 井沢元彦なども指摘していますが、日本人にはそれぞれの時代に導入された宗教を形式的に受け入れ、根本的なところで、原始的宗教感覚を維持し続けているのだと思われます。例えば日本人は「悪い表現」を嫌います。悪い表現をされることで、けちをつけられた、すなわち悪い(霊的な)呪いを送られたと受け止めるのです。だから悪い発言は縁起が悪いとかで、とかく嫌われます。こうなるとそれを取り除くにはお祓いしかありません。ここには言葉には魂(霊)が宿るという日本の言霊信仰があると井沢は指摘しております。これは日本独特の宗教風土です。

 私はこのような宗教風土、言い換えれば精神構造があるために、日本人は論争競技など好まないのだと思います。これを行うというのは、日本人にとって悪霊のぶつけ合いに等しいからです。世界的な交渉手段であるディベートが日本になじまないと言う障害はここにあるのだと思います。


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