顔を持たない商人(1989年10月)
 高川 憲之

 顔を持たない商人という言葉がある。それが国際社会の中での日本の地位と言われている。近年の日本の経済の発展は誰もが知っての通り奇跡的といえる程のめざましいものがあった。実際にマンハッタンで流行のファッションを買い漁るのはアメリカ人の女性達ではなく、日本人のそれも何処にでもいるそれなりの生活をしている女性達であると言われている。そして今やマンハッタンのアメリカ人は彼女達のためにたいていいくつかの日本語を知っていのである。それだけ経済が発達して、1980年代は日本とアメリカが主役の10年であったと言われる程にさえなった。にもかかわらず日本人の姿は国際社会の中に出てこない。今や外国人が注目してやまない日本人、しかし誰もが果して日本人とはどんなものであるかを知り得ていないのである。そして日本人は顔を持たない商人とあだ名されるのである。ここで誰もがと敢えていったのは、外国人のみならず多くの日本人も果して日本人とは何であるかを知り得ていないからだ。もっとも日本人であれば、自分を指さして”これが日本人です”といえるのであるから、日本人とは何であるかを自覚していないというべきかも知れない。

 この名を冠するに至ったのは、厳然とする日本の経済発展によるものであるのは言うまでもないが、それが欧米主導の経済体勢の中で、アジアの小国日本が成し得たという欧米社会に与えた驚きと恐怖が背景にある。もう一つは一人一人の日本人を含めて日本の外交姿勢が、隣人に接し理解し合うという文化的根拠あるいは共存共栄の原理によるものではなく、列強国間の生き残りをかけた攻撃的な戦略(あるいは帝国主義)を根拠としていたことによる。

 産業革命の後の近代は、まさにヨーロッパが主役の世界であった。世界がヨーロッパであった。彼らこそ優れた民族であるという美酒に酔いしれた時代であった。実際に植民地化という手段をとってそれがアフリカでアジアで証明されていったのである。アフリカ人やアジア人は彼らの被支配民の地位に甘んじざるを得なかった。この世界的構造は第二次大戦まで変わらなかった。いやもしアメリカという国がヨーロッパ文化の延長線上にあることを認めるとすれば、1960年までこの世界的構造は変わらなかったといえる。むろんアフリカ人、あるいはアジア人は第二次大戦後に植民地的な被支配民の地位を脱却するには至ったが、それはおもに自国で勝ち得たものではなく、ヨーロッパ自体の愚行による没落の恩恵であった。そして経済的には依然、被支配民的な地位に留まっていたのである。言葉を換えれば、日本を含むアジアの文化や思想などはつい30年前まで考慮に値するものではなかったのである。

 日本の経済発展はヨーロッパ人にとってはアジアの奇跡に映った。1970年の高度経済成長は世界の注目を浴びたのであった。それは彼らにとってはほほえましい程度の出来事であった。アジアの一国が近い将来経済的支配民の一員になり得るだろうとは欧米人は夢想だにしなかったのだ。実際に戦後の経済成長は、アメリカによるところが大きい。朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の軍需が日本経済の建て直しに大きな役割を果たしたのだった。実際のところ朝鮮戦争の特需がなかったならば、日本経済の今日がこうも早く築けたかどうかは疑問である。それらいっさいがっさいの支援はアメリカより与えられたのだ。この範囲まででは日本も欧米の経済支配の恩恵に浴するアジアの一国に過ぎなかった。であるからこそ日本の経済発展はほほえましい出来事であったし、アジアの奇跡として賞賛されるべきものであったのである。その奇跡が、その後20年依然として継続するだろうとは誰もが信じていなかった。いや信じえる根拠さえなかったのだ。当事者の日本人でさえ信じていなかった。というよりは、日本全体が経済発展という新たなる目標による戦闘に必死で、将来の存在などというものに気にしている余裕などなかったのだ。何はともあれ、ヨーロッパ人にとって日本の経済成長は単なる奇跡でしかありえなかったのだ。それはたまたま宝くじに当たったという程度の次元であり、彼らにとってその理由などを掘り下げて検討する必要など全くなかった。その奇跡は数年で忘れ去られる程度のものであるはずだったのだ。日はすぐに沈むものであるはずであった。ところがそれは日本の歴史的背景を無視した短絡的発想からであり、日本の経済成長に関する明らかなる誤った見識といわざるを得ない。それは決して奇跡などではなかったのである。

 明治維新の後に日本政府が直面したのは、欧米による帝国主義的支配の驚異への対決であった。政府はその為に脱亜入欧、富国強兵の政策を推し進めた。欧米の技術を導入し西洋化を急激に進めた。アジアの伝統は何等の検討もなしにそれがアジア的であるというだけで劣るものだと決めつけられた。その反面に非合理的な伝統でさえ欧米からのものが受け入れられた。国民は米を食べ日本酒を飲んでばかりいると馬鹿になるので、パンを食べウイスキーを飲むように強要されたのだった。生めよ殖やせよと教えられ、明治当初に人口4000万弱だった日本はその後に急激な人口増加を見ることになる。多くの子供を生む女性が国家的な英雄となった時代であった。その余剰人口は都市に集められて日本の工業化の労働力となっていった。資源のない日本は加工を主体とする産業を発展させて国際的な競争に生き残りをかけるしか手段はなかったのである。これは経済発展の為には極めて正しい政策であった。そして日本は工業国家としての基盤を日本古来の伝統を犠牲にしてまでも整えていったのである。第二次大戦の後にも、日本にはこの工業基盤と優秀な人材が残っていたのだ。朝鮮戦争が契機にはなったとしても日本の高度経済成長は決して奇跡の賜ではなかった。日本はそれを行なうことの出来る地道な準備を、あるいは屈辱にまみれ血を流すような努力を80年の長きに渡って行なっていたのである。しかし日本人はその時、第二次大戦後の欧米からの文化的あるいは経済的驚異による経済戦争の戦闘に精一杯で、それが奇跡などというものではないと外に語りかける者など一人もいなかったのである。世界中は故にそれがアジアの小国の奇跡であるとしか考えようがなかったのである。

 実際それが奇跡などというものではなく根拠のある基盤によるものであったから、日本の成長は以降とどまる事がなかったのである。ヨーロッパは1980年代に入ってようやくそれに気がついた。日本の経済力がヨーロッパ経済の低迷を尻目に強大となり、日米の経済闘争が世界経済の主役となってやっと自覚せざるを得なくなったのである。ヨーロッパは驚愕した。それは何世紀にも渡るヨーロッパ主導の世界の歴史が終焉を告げようとしていたからである。彼らはヨーロッパが日本人のあるいはアメリカ人や外国からの観光客のための広大な歴史博物館に貶められるのではないかと恐れおののいたのである。特に今までは考慮にも値しなかったアジアの一国である日本、ヨーロッパにとっては完全に異質である日本に向けられる驚愕と恐怖、羨望と嫉妬が相当なものであることは想像に難くない。顔の見えない商人、しかし世界を動かす力のある商人、全く異質の文化と人生のプライオリティを持つ商人にヨーロッパは震撼した。最も彼らは近年までその顔を見ようともしていなかったのも事実ではある。

 一方の日本人も自国を経済戦争の戦場にして、美しかった国土を醜い何ら統制のない工業都市に変え荒廃させて行った。日本人を近代化、工業化に走らせたのは結局のところ自国民の幸福を追求するなどという姿ではなく、欧米支配の恐怖である。その恐怖であったからこそ、伝統的な家や制度はことごとく破壊され工業都市化の犠牲が何のためらいもなく成されたのであった。その都市は実際のところ戦場であるので、美しさとか文化とか伝統といったもので装飾されることもなく、醜いコンクリートと鉄骨の地肌で覆い尽くされた。都市で働く者はその戦争の兵士であるので、都市生活者としてのモラルなども教育されなかった。その配慮なども何もなされはしなかった。そしてその無情の経済戦争の戦闘で弾に当たって倒れた者は、都市生活の敗北者として烙印を押され田舎に引き下がざるをえなかったのだ。その象徴である日本の首都東京が、およそ都市計画などというものに縁がないような混乱と醜態をさらけ出しているのは、この事実を如実に物語っている。しかし多くの日本人は未だ世界中で東京がどれだけ醜い姿を持った都市であるかを知らない。悲しいことにまだ多くの日本人が自分らの犯している罪に気付いてはいない。脱亜入欧の古びた旗を未だ振りつつ、国土をその戦場と化している罪に気付いてはいない。

 そのような日本人の外交姿勢が、隣人に接し理解し合うという文化的根拠によるものではなく、列強国間の生き残りをかけた攻撃的な戦略を根拠としていたのは当り前である。日本人の外遊は欧米の技術の模倣を目的として始まった。これは近年の例であるが、半導体技術が注目されトランジスタラジオが世にお目見えした頃、それらを開発して圧倒的な技術的優位を保持していたのはアメリカであった。工業国家としてそれを追う日本は、あるいは日本の各企業はアメリカの半導体学会に毎年大量の人間を派遣した。また有難がるようにアメリカ企業と高額な契約料で技術提携を結んで行った。日本人はその学会で全くとるに足らない発表しか出来ないのに、実に出席者の3分の1を占めるほどの人数に至っていた。そして彼らはアメリカ人の発表に耳を傾けたのだ。アメリカ人の発表の際、彼らが発表のために使用するスライドが一枚一枚変わって行く度に雨がトタン板を打つような音がしたという。それは日本人がそれぞれそのスライドを自分のカメラに収めている音であったのだ。

 私にとってそれはとても複雑な気分にさせ苦笑させる話である。私にとってそれは私達の父達が自分らの生き残りのために必死であったという苦労話でもある。しかし当時のアメリカ人にとってそれは笑い話の種であったには違いあるまい。しかし私達の父達が何故それを日本人としての恥をしのんでさえ行い得たかを考えれば、彼らの心情が痛いほど理解出来るのではないだろうか。それはまさに彼らの外遊が生き残りをかけた日本の戦略であったからである。日本人にとって外交とはその戦略のための手段であって、自分達の顔を隣人に知らしめるものでなかったのだ。従って外国人は今の今まで日本人によって日本人の顔を知る機会を持ったことがない。日本人はその戦略のために敢えてその顔を隠して来たとも言えるのである。そこに日本人がいるのに、今や世界中に日本人が沢山いるのに、外国人は未だその日本人の素顔を見る事が出来ない。これはおかしさを越えて恐怖さえ覚えさせる事実ではないだろうか。

 貿易立国になった日本は、他国の市場に進出して自国の生き残りをはかる。そのためにその国の市場のシェアをまずは占領する。それが日本のやり方である。市場帝国主義との批判の向きもあるが、これはある意味では自由市場の経済的原則であり、いわゆる経済人のとるべき姿としては非難されることではない。またいかなる国にあっても自由経済の恩恵を受ける者がそれを非難する権利はない。しかしそこに存在する経済政策の攻撃性は否定出来ないであろう。人間は感情の動物であって、理性に依存するものではない。日本人が国際社会の場で自分達の顔を見せる事なくその国の市場のシェアを食い荒すような攻撃的戦略でもって、今後も諸外国とつきあって行くのであれば、必ずや同じ攻撃的な戦略によって諸外国より報復を受けるであろう。それが日本にとって得策でないということは明白であろう。

 日本人は世界経済の中で顔を持つ商人にならなければならない。今まで通りの戦略を推し進めることは出来ないし、自分らの歴史的背景を外に知らしめ、日本人の顔を見せるときがもう訪れているのである。

 我々には我々の責任によって我々自身が育んだ顔がある。いやそれを意識して持たねばならないのだ。「顔を持った商人になること」それは先進国の仲間入りした日本の義務でさえあろう。それによって世界に新しい議論が生まれるにしても、我々の顔を見せ隣人と話し合って行くというのは今後の我々の義務であることは言うまでもなく、国際ルールでもあるのだ。それはお互いに異なった文化、習慣を持った者同士が交流する国際社会の場での最低のルールである。外国人は同じアジア人を含めてその日本人の顔を今本当に知りたがっているのである。「顔を持たない商人」は国際社会の中でいつまでも生き残ることは出来ない。日本は早急に「顔を持つ商人」と変わらなければならないのだ。

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