西洋と日本の哲学についての考察−手紙−(1989年9月)
 高川 憲之

 地球上にこれが真実の哲学であるとか、宗教であるといわれ支持あるいは信仰されているものが幾つあるのだろうか。ヨーロッパを中心とするキリスト教と西洋哲学。中東を中心とするイスラム。インドを中心とする仏教とその哲学。中国の儒教を代表とする哲学。そのほか、散在する部族が独自に築き上げた宗教、哲学を含めるとその数は数千に及ぶであろう。一個人は、各自が所属する共同体が支持する宗教、哲学を真実と思い込み生活を行なっている。

 そもそも西洋哲学は、ギリシャに発生した宗教感とそれに基ずく価値観によって生まれた。よって本質的に、唯一の世界の真実を求める学問ではない。それらは、他の地域で発生した宗教と哲学と同質なのである。現在における西洋哲学の行き詰まりは、西洋哲学自身の性格による限界を露呈したのである。この様な批判は、その西洋哲学の長い歴史の重みに苦しんでいるヨーロッパの思想家たちからも行なわれており、例えばデリダ、ドゥルーズ、ガタリらのポスト構造主義に代表される。私は彼らの原著を読んだことが無いが、日本語訳されたものを見るに限って言えば、彼らの文章程難解なものはない。何故そのような不必要とさえ思える難解な文章を書かずにはおれないのか、まるでそれはタレスに始まる長い西洋哲学の歴史の怨念のようである。

 ギリシャの文明は、その神々がほとんど人間的性格を持つことに代表される。人間にとって全能である神、言い換えれば理想の人物である神に彼らは近づきたい、あるいは同一化したいと考えた。全てを知る神に近づくには、人間も神と同様全てを知らなければならない。(私はこれにある種の脅迫観念を感じる。そしてその脅迫観念は、西洋哲学を通じて現代にまで至っていると思う。)彼らは、そこでまず言葉とは何か、理性とは何かを考えた。そして、それぞれの言葉の意味や理性にはその中に唯一の真実、唯一の本質が(ロゴス)あると考えた。そして、その”ロゴス”とは何かという命題を追求する学問、いわば西洋哲学が生まれたのである。科学は、その哲学より分かれたものである。ギリシャ文明以前にすでに数学は高度に発展されていた。当然ギリシャ哲学もその影響を受ける。そして、ギリシャ哲学はその発展の初期に数学的要素を組み入れた”原子論”を生み出しているのである。現代科学は、その”原子論”に根本的思想がある。科学とは、もともとは哲学の一部であったのである。ただ科学は、人間の精神に介入することを拒否し、ひたすらに物と物との関係に”ロゴス”を追求してきたのである。

 では果して、”ロゴス”は存在するのであろうか。もし、ロゴスが存在しないとなると、西洋哲学約2600年の歴史は無意味なものとなってしまうのではないだろうか。

 近年人類学が注目され、いろいろな民族の習慣、宗教、哲学が紹介されることとなった。それを比較検討する、文化人類学が現代の哲学に深い影響を与えている。それぞれの文化を比較するに当たって、従来(ヨーロッパで)信じられていた真理や常識が異民族の文化ではまったく通用しないことが明らかになった。真理や常識は世界に分散する文化の数程あったのである。そこで文化人類学は、われわれの構築する、法、社会、習慣等はいっさいが幻想であると結論づけた。要するに、それぞれの文化にある真理、常識が正しいと思っているのは、その文化の中で育った人だけなのだ。又、その文化を支持する共同体のメンバーはその真理、常識を共有するので、それを”共同幻想”と名付けた。さらに結論付ければ、われわれは共同幻想という仮想の真理を創造する生物なのだ。又それなくしては人間は生きては行けない。

 私は、ロゴス自体が幻想(共同幻想)であると思う。ロゴスは実在しないし、それを言語で確定はできないのである。それは、われわれが生活していく上でどうしても必要な為に仮想した物(真理、常識)に過ぎない。すれば、哲学という学問が真理を追求するものであれば、哲学とはわれわれがでっち上げた物(真理)を正当化するためにさらにでっち上げを重ねるものとなってしまうのである。哲学の用語が専門化し、われわれの生活レベルから遠のき難解になって行くのは当然で、その行為は幻想であるものをさらに幻想によって説明を試みているのに他ならない。 では、存在すべきロゴスが存在しないことによって西洋哲学は無意味な存在となるのだろうか。私はそうであるとは思わない、なぜならロゴスの存在は人間の存在や価値体系にとって必要不可欠であったからである。われわれは、ロゴスの存在を仮定しないことには社会を形成し自己を確立することができないのである。

 人間の価値体系は個人によって様々に異なり、決して同一であることはない。私はそれは、人間の本能が他の動物と異なり本来の欲求とその充足の行動を逸脱していることによると思う。普通動物は空腹になると何か物を食べたいという欲求にかられる。そしてその欲求が食事によって満たされると後は次の欲求が発生するまでなんの行動も起こさない。少なくとも当面何かを食べようとする行動には出ない。人間はおなかがいっぱいになってもさらにおいしいものを想像することができる。中国の例では、今食べた物を吐き出してまで他の物を食べるのである。これは人間の欲求が他の動物と異なり、常に人間を刺激し生活の行動を強要しているように見える。われわれの本能は特殊な方向に変化(本能の進化ではないかと思う)してしまったのである。生き物にとって常に欲求が生じることは種族保存のために有利に働く。そういう方向に人間が進化してもおかしくはない。その是非は別として、人間の特性は常に何かを求めてさまようところにある。実際の欲求はもはや現実の食べ物や物では満足しきれない。そこで、われわれの欲求は仮想の物、理想的な物、超越的存在の物へとさまようのである。それをまとめて幻想と呼べば、人々は勝手に幾つもの幻想を持って生きている。それぞれが勝手に幻想をつくり、その人の価値体系がつくられるのである。ところがそれはあくまでも幻想であって、現実的根拠が無い。われわれの存在に対する不安感はそこから発するのである。自分とは誰であろうか、と問う人がいる。というか、誰もが自分に問うている。それは、自分の価値体系を仮想な物、理想とする物に投影した結果の、何等現実感のない不安によるのである。そこでその不安感を解消するために、人は集団をつくる。人はお互いに理解し合う者を求める。それは一緒に幻想を共有することによって、そういう努力を払うことによってお互いに慰めあっているのである。(人間はもし誰も理解し合える者がそばにいないと気違いでしかない。)この様に共有された幻想、すなわち共同幻想は個人の価値体系の上部におかれることになる、それが真理や常識と呼ばれるものである。われわれがもしロゴスを否定すれば、言い換えれば共同幻想を否定すれば、われわれがやっと築き上げたわれわれの存在の根拠を否定してしまうのである。

 いかにしても、西洋哲学はその事実を受け入れるべきだ。でなければ現在の行き詰まり、難解な専門用語の乱用による遊戯から脱却することは出来ない。私は哲学は決して死なないと思う。人間がある限り、われわれは誰であるかと問うであろう。例えわれわれの真理が幻想であったにしても、その幻想から新しい問いが始まり、幻想としての哲学が生まれるのである。個人的な意見として現在の哲学の様相は、心理学の主流である行動心理学とそっくりであると思う。行動心理学者はマウスの脳に電極を刺し込み、それを箱の中で走らせて喜んでいる。彼らはその行為の集積がいつかは人間の解明につながると信じているのである。日本の伝統的な女性は、好きな男から好きだといわれると余りのうれしさにどうしてよいかわからず、というかうれしさを素直に表現することを文化的に抑止されているために(そういうことは恥ずかしいことだとされている)、うれしいと思う自分が恥ずかしくてその場から逃げ出してしまうという。(ただし、私はそのような日本女性をテレビで見たことがあるが、実際にあったことがない。)私は行動心理学者が、マウスの脳に電極を刺し込んだ努力の結果、この日本女性の心理を解明する日がいずれ来ることは決してないと思っている。それどころか、マウスに電極を刺したところで河馬の欠伸、雄猫の発情期の夜泣きさえわからないだろうと思う。一方哲学は、理性とは何かを問い続け、その究明を続ければ必ずその答え、さらに人間の解明に行き着くと考えている。それはわれわれの言葉によって解明されるものと信じられている。そして結果として難解な文章が生まれ続ける。その余りの純情な無益さにおいては、行動心理学となんらのかわりもない。

 さて日本の現状であるが、多くの人間は哲学に興味を持っていない。西洋哲学を毛嫌いする者も多い。彼らは、西洋哲学を「言葉の遊び」だとか、「くどい」とか「しつこい」とか「無意味に難しい」とか言う理由で嫌う。私も、歴史的必然性を理解しながらもヨーロッパの哲学者は難解な文章を考え出す自分に酔っているのではないか、そうすることによって優越感に浸っているのではないかと時々思う。ところが、哲学が一時期日本で流行した。それは、日本の哲学者が一般の人間でもわかるよう平明な文章で自分の意見の発表を始めたからである。或はそう努力したからである。(私はそれに恩恵を受けた、というのは哲学に興味を持てたからだ。)しかし多くの日本人にとって、哲学の知識は単に教養の一部でしかない。それは知的優越感を満足させる以外にはなんの役にも立たなかった。日本人にとって哲学とは、おしゃれな服と同等な地位しかない。その人を飾る装飾品の一部である。

 日本人は、理性とは何かとか、私は誰であるかとかを問う哲学を育まなかった。誰もがそれを明確に意識していないのにも関わらず、日本人の哲学の根底には、自然と調和して生きて行くことをよいとする考えがある。自然に逆らわず、自然の恵みに感謝し、自分を生んだ母なる大地を敬い、悲しいときには素直に悲しみ、うれしいときには素直に喜ぶ。自分が死ぬときは天命であると思い、この世に生を受けたことに満足しつつ死を迎える。自然と調和することを優先し、周りの人間と調和することを優先するのがよいとされているのである。自然との調和が主題であり、真理とか唯一の法則とかに関心を示さない。これは宗教感にも通じるものがあり、漠然としたこの哲学、道徳感のためあまり既存の宗教にこだわることがない。キリスト教のような唯一の理想的存在としての神は日本人にとって必要がない。日本には従って沢山の神様と仏様がいる。もっとも現在は、このようなほのぼのとした哲学はあまり日本人に意識的に支持されていない。悲しいことに、現実的な経済の競争原理が日本人を支配しているようだ。ただし、ふと疲れきったとき、日本人はその伝統的な哲学に帰って行く。

戻る