常識についての考察−手紙−(1987年4月)
 高川 憲之

 中学生の頃、ただ漠然と感じていた疑問がある。女らしいとか男らしいとか、何故皆そんな素振りをしなければいけないのか、と言う事。もう一つある。不良と呼ばれる者、その行為が何故格好良いとされるのか、と言う事。

 その頃、私が考えたのは、男らしいとか女らしいとかは大人が決めた一つの決まりなのだと言う事。そう言う決まりが嫌という程沢山あって、そして頼みもしないのに勝手に決められた運命の中を、せっつかれてせっつかれて泳いで行く自分を想像して、大人に対して大いに憎しみを感じたものだった。だから私にとって不良は格好良いもので、それは大人達に対する反逆であった。

 ここで私の宇宙に二つの世界が形成された。善良な面をしながら人を縛り上げ、その心の自由を奪い腐らせて行く大人と言う世界。不良と言う衣をまとい、自由を求め純粋に生きて行こうとする子供と言う世界。この宇宙感については私にとって根強い様に思う。又未だにこの相反する世界の葛藤を垣間見、子供側にいる私の心をいかんともし難い。しかしおそらく、そこは私の宇宙の中で私の心が住んでいられる唯一の場所ではないかと思う。今後どの様な世界が描かれて行こうと、もうその場所を動けはしない様に思う。

 さて私は、大人は人を縛り上げて云々と書いた。今にして思えば、それは短絡的であったと思う。しかし考察は幾度となく重ねられ、現在になってようやく一つの疑問とその解答が導き出されたのである。すなわち、私の言う大人(換言して言えば共同体の事である、この場合はえてして代表される強者の意志を含む)は何をもってして人(共同体の構成員、子供とはその中の弱者の代表と言える)を縛り上げるのだろうと言う事。そしてその忌まわしいロープこそ ”常識 ”と言うものなのだと言う事。日頃それが良い事だと信じ込まされている常識というものこそ、大人達が人を腐らして行くために使う卑怯な武器なのだ(要するに常識は保守化の良い隠れ箕となり、保守化は社会上位から蔓延し、最終的には共同体そのものを硬直させ腐敗させると言う訳)。

 その証拠に、常識と言うものが我々の心を自由にしてくれた事が一度でもあったろうか、一度もないのである。常識は疑いも無く虚構である(この手の証明には枚挙に暇がない、例えば日本では食事中直に手を使う事をはしたないとするが、インドでは常識とされているなど)。我々一個人が、個人的意志に反する状況に屈服する際、それらの優位性を納得させる為に持ち出される常識こそ、我々が構築する虚構の原理となるのである。そうした上で、尚納得し切れない心は、発散されないでいるエネルギーを他人に押し付けて、平衡を保とうとするのである。これが要らぬ常識が強要されるプロセスなのだ。常識の強要は、えてして強者より弱者へ行われる。そうしてすみずみまで常識は蔓延するのである。又、常識が持ち出される場合強者の屈服された個人的意志、則ちエゴが弱者に注がれるプロセスも見逃せない。ある者は自己のエゴを押し通すためだけに常識を持ち出そうとするだろう。常識は次第に屈折を始める。いや元々屈折した存在なのだ。

 私は思う。我々の現実の中では、諸様式が発達(複雑化)してしまい、残念な事にそれぞれの常識の起源はもう知るすべもない(我々には、強者をも凌駕する共同体意識があり、原始社会を構成していた。そこいら辺の発達関係が不明瞭である)。又、現在常識は権力構造に即応した形で統制されている。しかし、その本当の姿は限りなく醜い。その名のあたかも知的な粉飾の下に、おぞましいエゴの、赤黒い復讐の謀略が絡み合い、のたうっているのだ。

 だが、我々は悲しい性をもって生まれているのも事実である。常識とは実は人間がそれなしでは生きて行けぬ為に造られた一種の虚構なのである。その中でお互いが安堵して生きている。果して常識が崩壊された場合、我々は自我の平衡を失い、人は絶えざる欲求とそのストレス、或は恐怖感にさいなまれ、お互いを傷つけ合い、果ては自己諸とも社会をも崩壊するに至るであろう。人間の進化が、常識を骨格とする社会行動を形成する道を選んだからである。だが私は本心それを悲しく思っている。生み出さざるを得ずに至った常識という虚構とは、何たる必要悪であろうか(ここに実は私の絶望が渦巻いている)。人類の常識への選択(林檎を食べたアダムとイウ゛)は、それが為に受けねばならぬ内部矛盾(常識と自己の対立、則ち原罪)を引き起こしている。そしてその矛盾は深刻であり永遠である。

 私が常識を嫌うのは、こうした背景にあるのだ。常識とは決して知的であったり崇高的なものでは(ある意味ではそれが常識のかしこいところで、単純なる私としては・・・・)なく、悲しい悪しきものであるのだ。そして盲目的で従順な善人と呼ばれる者達は、自分等の常識を持ち出す悪事について何も気付いてはいない。彼等の魔性のいかなる醜悪さについて何も感じていない。それは完全な悲劇なのだ。又、確実に悲劇を引き起こして行く(換言すれば現実に裏切られ続けるのだ)。

 私は永遠に語り続けたい。私の生在るかぎり! 私達は悲しくも頼らざるをえない常識についてもっと懐疑的でなくてはいけないのだ、と。そしてその時代時代で不必要な、非合理的な常識は極力排除すべきなのだ。更に建設的に捕らえて行くと、常識についてあらゆる状況を設定し点検を行い、最小限度必要なものは何か、ある程度必要なものは何か、或はそれをもってして退廃の弊害を引き起こすものは何かという具合いに、綿密な洗い出しを行う必要があるのである。それを踏まえた後の選択は、それぞれの時代人の責任に帰するであろう。

 さて、最後に私は決裁をし、常識を定義するのだ。

 常識とは、(岸田秀や吉本隆明が言う)共同幻想を私的幻想が支配し得る唯一の語句(概念)であり、その役割を担っている、のである。それゆえに! 最も許されざるは、何の疑いもなく常識を持ち出すことなのである。

戻る