国籍と民主主義についての討論 青-Fさん、黒-Kさん、赤-Tさん

発端
私の想定したのは、(すでに書いたような
気もしますが)「重国籍は(治者と被治者の同一性原理を基にした狭い意味で
の)民主主義に反する」ということです。国籍唯一の原則は民主主義の原理か
ら導かれることを素直に認めたらいいと主張したのです。

疑問
国籍唯一が民主主義の原理、というのは、どこからきているのですか。

重国籍はむしろ国家主義の崩壊、広範囲での民主主義の活性化という気がしますが。


最初の回答
「重国籍は民主主義原理に反する」を以下に論証します。

1 ここで言う民主主義原理とは「治者と被治者の同一性原理」を指します。
この前提には、個人の自由・平等も必要ですが、ここでは「治者と被治者の同
一性原理」に焦点をあてます。したがって、狭い意味での民主主義と言ったほ
うがより適切かもしれません。

2 「治者と被治者の同一性原理」をもう少し具体的に考えてみます。国家権
力(治者)の正当性は、被治者の合意によります。つまり、私たち国民自身の
選択より(権利)、国家のあり方・政策を選んでいるからこそ、その支配下に
入り、それらに従わなければなりません(義務)。

3 以上のことから、国籍は、国家に対する権利・義務を負うということにな
ります。

4 では、重国籍はどうなるでしょうか。重国籍者は2つの国家のあり方を決め
る権利を得ると同時に、2つの国家の支配下に入ります。この支配下にはいる
ところがポイントです。ということは、ある行為がどちらの国家から支配をう
けるか(どちらの国家の法律で処理するのか)、わからなくなるということで
す。つまり矛盾するわけです。例えば、刑法に触れることをしたら、どちらの
国の刑法によって裁かれるかということです(実際には、単一国籍でも属人主
義・属地主義の問題があり複雑ですが、「自分たちの決めた刑法によって自分
たちが裁かれる」ことを原則にしています)。

5 今までも何度も出てきた例として、兵役義務・外交保護権の問題がありま
すが、まさにこれが民主主義の原理から重国籍が反対される例です。もちろ
ん、現実レベルでは解決されますが、「実効的国籍」概念をもちいて、国籍を
「一つ」に決めなければ解決できません。

以上は狭い意味の民主主義の原理から考えてみました。
さて、それなら、なぜ重国籍は容認されるべきなのか。以下は私なりに納得し
た結論です。

確かに、重国籍は近代民主主義原理には反するが、国際的に移動する人たち・
国際結婚をした人たちは、重国籍でないことにより、極めて大きな法的不便を
被っている。また国籍に対してなんらかの強い感情を抱く人もいる。したがっ
て、現実的に重国籍に大きな障害がない限り、認めてもいいのではないか。

その後の議論の展開

> 2 「治者と被治者の同一性原理」をもう少し具体的に考えてみます。国家権
> 力(治者)の正当性は、被治者の合意によります。つまり、私たち国民自身の
> 選択より(権利)、国家のあり方・政策を選んでいるからこそ、その支配下に
> 入り、それらに従わなければなりません(義務)。


これはシュミットの「国民」民主主義と呼ばれる一昔前の「治者と被治者の同一性原理」の説明であることも理解していただけるでしょうか。今日の「被治者」の範囲は、定住外国人も含まれており、国の法秩序に服し、
義務だけ負っているのに、治者となりうる権利を認められていないので、「治者と被治者の同一性原理」という民主主義の原理からは、定住外国人の参政権が要請されるといように解釈されるようになってきていることも
念頭に置いて下さい。

実際には、法律に服し(税金を納める義務も果たし)ながら、参政権を認められない一定の人口がどの国にも存在する中、外国人参政権や二重国籍を認める方法を通じて、民主主義の不足を解消しようとする動きが、多くの国でみられ、日本でもみられるようになっているのが現状です。

「治者と被治者の同一性原理」からは、定住外国人参政権が導き出せることはよくわかります。しかし、「定住外国人参政権=重国籍の実現」ではありません。「治者と被治者の同一性原理」を一貫させれば、まず、地方と国政を分けること自体がおかしいし、生活実態がない母国(被治者ではなくなっている)の国籍を離脱せよ、ということになります。

本でも書いている主張は、定住外国人(永住市民と呼ぶ)の参政権は、国政までもみとめることを主張していますし、国民主権や民主主義を根拠として主張する場合は、そうなる人が多いようです。外国人の参政権でも重国籍でも、どちらの方法でもよいが、民主主義の決定に定住している人が参加できるべきだという主張です。

生活実態がない母国(被治者ではなくなっている) の国籍を離脱せよとは思いません。しかし、外国に長期に定住している国民の在外投票を認めることは、積極的には支持していません。決定への責任の問題もありますが、正確に日本の政治問題を判断する情報を得ていることが期待しにくいからです。インターネットの普及で事情は変わりつつあるかも知れませんが。多くの国の在外投票では、その種の在外投票を認めていません。ただ、日本のようにすべての在外邦人の在外投票を認めることにも反対もしません。在外邦人が日本の被治者でなくなっているわけではなく、対人高権に服していると国際法的には考えられておりますので、そのかぎりで、治者を選ぶ権利も認めうるし、憲法15条が国民に公務員の選定権を保障している憲法の条文の解釈からは、在外邦人の選挙権は要請されます。



私がいつも矛盾に思うのは、被治者だから、住んでいるところの国籍をくれ、と主張しておきながら、母国の国籍は、いや、愛着があるんだ、アイデンティティなんだと、他の原理が出てくるところなんです。すでに書いたように、大きな不便を被っているのは事実でしょう。また、国籍に一定の感情をもつ人の気持を尊重すべきなのです。しかし、原理を一貫させたらどうなるのかと、とりあえずは押さえることが重要ではないかと述べているのです。

すなわち、「治者と被治者の同一性原理」からは「国籍取得簡易化」の要請は出てくるが、直接的には「重国籍の実現」は出てこないということです。「重国籍の実現」は原理のレベルではなく、「現実のレベル」で出来るものだと思われます。

国籍取得簡易化の一番実効的な方法が、従来の国籍の放棄の規定を削除すること、すなわち重国籍を承認することであると、スウェーデンその他の国々でも考えられていますし、日本もそうです。したがって、、「治者と被治者の同一性原理」からは「国籍取得簡易化」の要請が出てくることが認めていただければ、「重国籍の実現」も、国籍実務の事情を理解するかぎり、でてきます。

おっしゃる通りです。

「治者と被治者の同一性原理」(普遍的原理)からは「国籍取得簡易化」の要請が出てくる。
「重国籍の実現」は「国籍実務の事情」(現実的要請)から出てくる。
つまり、後者は「原理」から導かれるものではない。

以上の点で合意ができたと思います。私がもっとも言いたかったことはこれです。


いいえ。> 「治者と被治者の同一性原理」からは「国籍取得簡易化」が導けるのも、各国にいる定住外国人の存在という「事実」を前提にしているからです。鎖国してて、外国人住民が存在しない国を想定すれば、原理的には出てきません。「人民による支配」が民主主義の最も一般的な定義と思われますが、鎖国状況では、人民=被治者ですから。外国人住民の被治者がいなければ、「国籍取得簡易化」の要請など、出てきません。
逆に、外国人住民が国民と同様に人民であり、被治者であっても、、「国籍取得簡易化」の要請など、出てきません。
 現在の日本のように、被治者である外国人住民がいて、治者となる権利が認められていない状況を前提とするから、「国籍取得簡易化」が出てくるのです。「参政権の実務の事情」を知らない人には、この関係はわからないでしょう。
 同様に、、「国籍取得簡易化」が何を意味するのかは、「国籍実務の事情」を知らない人には、わからないでしょう。 事情を知らない人は、帰化の料金を安くすればいいとか、居住期間の要件を短縮すればいいとか、いう人も出るでしょう。日本の場合は、一定の生地主義を認めるか、帰化ないし届出において従来の国籍放棄を不要とするなど、重国籍と結びつくことが、「外国人住民」が国民となり、日本の被治者が治者となりうる方法だということをいっているのです。

外国人参政権の承認が原理的に出て、重国籍の承認が原理的に出ないと言うのは、日本という国の統治原理としての民主主義の話ではなく、勝手によその国の民主主義原理とチャンポンにする議論をするからだといっているのです。


定住外国人も居住国の被治者ですから、治者になる可能性を認めることが、治者と被治者の同一性原理からでてきます。その実現の手段として、外国人参政権と重国籍があることを理解いただければ、日本に住む重国籍者は、単一国籍者と同様に、日本の被治者として、領土・対人高権に服しますので、治者となる権利が同じく認められてしかるべきです。
 他の国の被治者であるかどうかは、関係ないというのが、イギリスなどの民主主義国が取っている立場だと思います。領土主権の支配の方が、対人主権の支配よりも、質・量ともに大きなものがあるという判断もその背後にはあると思います。


> 3 以上のことから、国籍は、国家に対する権利・義務を負うということにな ります。

そうですが、選挙による合意の意思表明を認められない外国人住民も、国民と近い義務を負って、国の法律に服しており、主権(領土高権)のもと、その支配の正当性も認められているのも現状です。

> 4 では、重国籍はどうなるでしょうか。重国籍者は2つの国家のあり方を決める権利を得ると同時に、2つの国
家の支配下に入ります。この支配下にはいるところがポイントです。


「支配下」の入り方が違います。住んでいる国籍国では、主権の全体(領土高権と対人高権の両方)に服する支配ですが、住んでいない国籍国では、一部の主権(対人高権)のみです。ちなみに、外国人も住んでいる国の一部の主権(領土高権)には服することになります。

なるほど、「対人高権」と「領土高権」を分けて考えるんですね。ただ、「治者と被治者の同一性原理」からは、支配下を一つにせよという要請が出てくるでしょう。

出てきません。基本的に、、「治者と被治者の同一性原理」にしろ、民主主義原理にしろ、一国の民主主義を考える原理であり、他国の民主主義のあり方は別です。日本の憲法は、他国の憲法への指令・要請を含むような不遜なことは国際慣習法上認められません。

日本の被治者に対して、どのような制度を用意して、治者となる可能性を認めるかだけを問題とする原理です。

複数の国でチャンポンにした形で、この原理を持ち出すから、矛盾しているように思いこんでいるような気がします。

「領土高権」というのは、例えば、日本に住んでいる外国人は日本の法律を守れ、という要請ですね。「治者と被治者の同一性原理」から考えれば、自分たちが同意した法律だから、自分たちは守らなければならないとなるわけです。しかし、在日外国人は日本の法律に同意したわけではないのに、守らなければならない、その意味で論理的に矛盾しているというわけです。誤解のないように言っておきますが、論理の問題です。おそらく現実的要請から「対人高権」「領土高権」という概念(修正原理)が生まれ、国際法的に確立されたのでしょう。もちろん、私はそれを否定しません。ただ、「治者と被治者の同一性原理」をつきつめて考えたら、論理的に矛盾しているというだけです。

「治者と被治者の同一性原理」は普遍妥当性のある原理であると私は考えていますから、他の国々との関係も当然視野に入れて考えます。

非民主主義国もあるので、普遍妥当性をもつとは思いませんが、もって欲しいとは思います。かりに、、民主主義国の中での普遍妥当性の議論に限定しましょう。

「他の国々との関係も当然視野に入れたりはしません」。アメリカは大統領を選べる、ドイツは州議会議員を選べる。日本は被治者の権利が少ないなどという議論をすることにもなりそうですね。

>ということは、ある行為がどちらの国家から支配をう> けるか(どちらの国家の法律で処理するのか)、わからな >くなるということで す。つまり矛盾するわけです。例えば、刑法に触れることをしたら、どちらの> 国の刑法によ
>って裁かれるかということです(実際には、単一国籍でも属人主 義・属地主義の問題があり複雑ですが、「自 >分たちの決めた刑法によって自分 たちが裁かれる」ことを原則にしています)。


日本の刑法にしろどこにしろ、刑法(や税法)は、属地主義が原則であり、国内で起きた犯罪は、原則として、単一日本国籍者であれ、重国籍者であれ、外国人であれ、日本の刑法に服します。重国籍者だからといって、どの国の刑法で処理するのかがわからなくなる問題を特に聞いたりしていません。外国人が犯罪を犯す場合は、自分たちの決めた刑法によって自分たちが裁かれない」ことを原則にしており、単一国籍者であれ、重国籍者であれ、原則は「自分たちの住んでいる国の刑法によって裁かれる」のだと思います。

なるほど、刑法や税法は属地主義が原則なのですね。「治者と被治者の同一性原理」の修正ということになるわけですね。修正の根拠を考えてみるとおもしろそうですね。

> 5 今までも何度も出てきた例として、兵役義務・外交保護権の問題がありま
> すが、まさにこれが民主主義の原理から重国籍が反対される例です。もちろ
> ん、現実レベルでは解決されますが、「実効的国籍」概念をもちいて、国籍を
> 「一つ」に決めなければ解決できません。


たしかに、兵役義務のある国では、外国人にはなく、国民にのみある特別な義務であり、その裏返しとして参政権が国民のみに認められるという議論がされます。ただし、女性に兵役義務が一般にないことも考えると、いかにも前近代的な民主主義観という側面がよくわかります。もし、兵役義務と国籍の結合が民主主義というのなら、女性や子どもの国籍を剥奪するのが民主主義というグロテスクな議論になりそうです。
また、日本の場合は、兵役義務がないぶん、これに反論する必要もありません。


私の言葉の用い方が悪かったようです。「兵役義務」とは「国民は国家を守る」という原則です。女性でも子どももできる範囲で守ることができるはずです。

ならば、重国籍者も、良心的兵役拒否者も、できる範囲で守ればいいだけです。その人たちの日本国籍を否定することは、女性や子どもに対して否定するのと同じ理由でおかしいように思います。

具体的に他国とはかって内乱・外患を企てた場合の刑法上の刑罰規定や、政府を暴力で破壊することを企てた団体のメンバーの帰化を認めない国籍法の規定がありますので、それで十分とするのが、重国籍を認める国のあり方と思います。

私がどこで「重国籍者」「良心的兵役拒否者」の「日本国籍を否定」をしたのでしょうか?
ただ、「できる範囲で守ればいい」という点では、全く同意見です。

何よりも日本の現状に即した議論が、時間の節約につながります

私は重国籍は普遍的な問題(「全世界で実現せよ」)として考えています。


日本政府への請願としては、日本の国籍法を改正することしか要求できません。他国は他国の国家主権の下に、国籍の取得・喪失の決定をすることを認めることは、他国の国民主権原理からも導かれ、それを否定することは、国民主権原理を否定する意見だといわれることになりそうですね。

「治者と被治者の同一性原理」は普遍妥当性がある以上、それぞれの国民の意思に左右されるものではなく、全世界に訴えるべき原理だと思います。その意味で人権概念と同じです。ある国で国民の意思により、明らかに人権を侵害する法律(例えば特定民族の虐殺)が設定されたとします。そうすれば、普遍的な人権概念を根拠に国際社会は反対すべきでしょう。民主主義も、人権概念同様、国民主権原理を超えるものです。

まず、重国籍の全面的な要請が、国際人権諸条約からは導けないことは以前書きました。
重国籍の全面的な要請の規定も、ヨーロッパ国籍条約は、成功できず、禁止はしないという「中立的」な立場を表明するにとどまります。

一般に、民主主義は、国民主権原理と同じ意味で理解されています。多数説は、国民民主主義とナシオン主権(伝統的な国民主権原理)が同じと考えているからです。ただ、定住外国人も民主主義の担い手とする民主主義(かりに人民民主主義とか、被治者民主主義と呼ぶ)の考え方もみられるようになったので、ナシオン主権とは、矛盾する側面が出ていているというのが私などの少数意見であり、このため、国民主権をプープル主権(人民主権)と考えて永住市民も含めれば、両者が一致するという議論をしたことがあります。

「民主主義も、人権概念同様、国民主権原理を超えるものです」というのは、多数説からすれば、理解しにくいものです。

あなたの主張は、民主主義を複数の国で考え、その結果、伝統的な国民主権原理が重国籍者の参政権も認めていることを制限するために、各国の独自の決定にまで、文句を言えるという主張のようですが、国際人権条約のような、国際民主主義条約がなければ、実効性がありません。

国際民主主義条約など、できる展望はありませんが、つくりたければ、国連などに請願する内容であり、日本政府に提案する請願内容として議論することは、あまり意味がないことです。

二重国籍者が両国の選挙権をもつことを二重投票と呼び、それを禁止することを提案する意見はみることも多いです。
国際間の協力がないと実現が不可能なので、実効的ではないですが、かりに国際民主主義条約を締結できたとすれば、重国籍の禁止ではなく、二重投票の禁止を提案する意見は予想されます。

人民の支配の人民が国民と一緒なら、民主主義も国民主権も一緒ですから、相手国の民主的な決定を無視して、民主主義の名の下に、相手国の民主的な決定を無視する要求をすることは、おかしいと思いませんか?

人民の支配の人民が国民と一緒なら、民主主義も国民主権も一緒ですから、相手国の
民主的な決定を無視して、民主主義の名の下に、相手国の民主的な決定を無視する要
求をすることは、おかしいと思いませんか?



> 確かに、重国籍は近代民主主義原理には反するが、国際的に移動する人たち・
> 国際結婚をした人たちは、重国籍でないことにより、極めて大きな法的不便を
> 被っている。また国籍に対してなんらかの強い感情を抱く人もいる。したがっ
> て、現実的に重国籍に大きな障害がない限り、認めてもいいのではないか。


重国籍は、現代の民主主義には、反するものではありません。
また、重国籍は、現実には、近代民主主義の発展に特に影響を与えた、イギリス、アメリカ、フランスで昔から多く見られた現象ですし、これらの国で、重国籍をなくそうという議論はほとんどありません。

私は「重国籍をなく」せ、などと述べたことはありません。また、「現代の民主主義」に反するとも述べていません。民主主義を「治者と被治者の同一性原理」と狭く限定した上で、「重国籍は反する」と言っているまでです。この「限定」がまずいなら、以下のように言い換えてもいいです。

「治者と被治者の同一性原理」からは、直接的に「重国籍の実現」を導くことはできない。

> 「治者と被治者の同一性原理」からは、定住外国人参政権が導き出せることは
> よくわかります。しかし、「定住外国人参政権=重国籍の実現」ではありませ
> ん。「治者と被治者の同一性原理」を一貫させれば、まず、地方と国政を分け
> ること自体がおかしいし、生活実態がない母国(被治者ではなくなっている)
> の国籍を離脱せよ、ということになります。

上記の「生活実態がない母国の国籍を離脱せよ」というのは、日本の場合でいえば、「定住外国人は、帰化して、単一日本国籍になれ」という意味か、「日本に定住する子どもの重国籍者は、日本の国籍だけ選択して、もう一方の母国の国籍を離脱せよ」という以外の意味があるのでしょうか。
 どちらも、重国籍をなくせということが、あなた独自の「治者と被治者の同一性」の解釈から導かれています。 ちなみに、その種の独自の解釈をする欧米や日本の研究者を私は知りません。

> また、母国どうしの係争を望まない重国籍者は何より平和を愛しま す。

この表現ならいいと思います。母国どうしの戦争を重国籍者は望まない、母国どうしの平和を重国籍者は求めるという意味で理解しました。

> 重国籍者は単一国籍者より平和を愛するのでしょうか。実証的な研究はないようですから、少なくとも経験的なデータが欲しいです。
> ここの参加者で重国籍の方もしくは重国籍者の知り合いがいる人で、「重 国籍者は単一国籍者より平和を愛 >する」と確信を持っていえるでしょうか。もしそのような人が多数なら、私も納得します。


「重国籍者は単一国籍者より平和を愛する」という表現なら、私もわかりません。
ただ、上の表現は、上に書いたように読めます。

経験的に知られている事実から考えるに、アメリカに住んでいた日本とアメリカの重国籍者(日系2世)は、収容され、2つの忠誠テスト両方にノーと答えて長期間拘留された人がかなりいた。当時、日本に住んでいた日本国民で兵役を拒否し服役した人は、ごくわずかな割合である。また、アメリカ軍に参加した日系人の配属先は、主としてヨーロッパでの前線か、対日本軍の戦闘部隊での情報部勤務と思われ、日本軍との戦闘の前線で日系人が日本を爆撃したり、日本人の軍人を殺すことを、アメリカ軍の司令官は期待できなかったことが予想されます。アメリカ軍の兵士になることに親兄弟から反対されながら、悩みながら、収容所に親を残してアメリカ軍に参加していた状況が、インタビューで紹介されています。
竹沢泰子『日系アメリカ人のエスニシティ』

> 実証しようと努力すべきものです。根拠や証拠がなければ、それは嘘やデマです。

そもそも、各国とも、重国籍者数を把握していません。ドイツが例外的にこれからは把握しようとしていますが、相手国がすべて通報制度を完備しなければ、正確には無理だと思います。したがって、重国籍者に関する実証的なデータを求めることはできません。論理的に考えて、多くの人は、重国籍者は、母国どうしの戦争を嫌うだろうということは、推定できると思います。また、もう一方の母国との戦闘を嫌う(多くは親兄弟の母国でもあるのであって、たまたまアメリカに子どもを産みに行ってアメリカの国籍も得たような例外事例は除きます)だろうから、忠誠義務をもちだして、重国籍者をなくそうというのが伝統的な議論であり、その議論の反対解釈から「母国
どうしの戦争を重国籍者は望まない」ことは、導けるはずです。

「国籍=その国籍国への肯定的感情(愛着)」を前提にしているわけですね。こう考える人が存在することは事実でしょう。そして、こう考えない人は「例外」というのですね。そうであるなら、すくなくとも「多くの重国籍者は〜」と表現すべきだったでしょう。ただ、私の出会った重国籍者たちが取り立てて平和主義者であるとは思いませんでした。特殊事例であると言われれば、それまでですが。

まず、残念ながら、民主主義の経験の長い国としての欧米諸国か、日本のこと以外はあまり知りません。
国籍離脱の自由が保障されていない国の出身者の場合には、国籍への憎悪があっても、国籍を結果として保持している場合も予想します。ただし、その種の非民主国の出身者の場合は、難民などの場合が典型ですが、国籍離脱が困難なので、帰化に際して、日本ですら重国籍を認めます。自分の出身国の政府を攻撃したいと思う人がごくわずかだとしてもいるかもしれません。でも、この場合は、現状の日本でも、重国籍を認めることが国籍法の規定上可能なので、今回の請願の対象となる人ではなく、ここでは検討の外に置きます。ただ、ちなみに、出身国の政府を攻撃したいと思っていることが、あらかじめ明確な場合は、日本の国益上、日本政府が帰化を認めず、重国籍にはなっていないようにも思います。

他方、国籍離脱の自由が保障されている国の出身者の場合には、国籍への憎悪があれば、離脱していることを予想します。離脱していない場合は、国籍への愛着か利便性を感じていることが想定されます。この場合は、国籍国との戦闘を好まないと思います。
 
また、ただ無関心であるため離脱していないだけとい場合もあるでしょう。この場合は、国籍国との戦闘を好まないかどうかは、ケースバイケースかもしれません。ただ、戦闘に行く場合は、国籍を離脱して行くでしょうから、重国籍を維持したいと思う人は、上述の国籍に肯定的感情をもっている国籍国間の戦闘を回避したい人ということになるように思います。

以上の全体評価からは、「多くの重国籍者は国籍国同士の争い(戦争)を望まない」ことがいえるように思います。

それがわかってもらえれば、「母国どうしの戦争を重国籍者は望まない」こというかぎりで、戦争抑止力が働くというだけです。4つも5つも国籍がある場合は、関係ないという意見もあったように思いますが、重国籍者の多くは二重国籍者でしょうし、二重国籍者に限定しても構いません。理論上、A国とB国の二重国籍者がその有権者の半数以上いる場合には、両国間の宣戦布告を民主的な国会は、承認しないように思います。二重国籍者の割合が下がるぶん、戦争抑止力も下がるようなイメージで考えています。

「国籍=その国籍国への肯定的感情(愛着)」を前提にすれば、成り立つかもしれません。また、より正確には「多くの重国籍者は国籍国同士の争い(戦争)を望まない」とすべきでしょう。

> > >> でも、愛着があるから国籍を手放したくない、子どもにも国籍を手放す
> > >> ような事をして欲しくない。これは自然な考え方だと思います。


 
>「自然な考え方」ではないと思います。私の考えでは(妻も同じことを言
> いました)、子ども(私たちにはまだいませんが)がどのような国籍でも構い
> ません。私の国籍でも、妻の国籍(ハンガリー)でも、それ以外の国籍でも、
> 何とも思いません。子ども自身が選べばいいと思います。なぜなら、国籍は政
> 治的・法的な概念で、親子関係とは全く別ものだからです。本人にとっていち
> ばん都合のいい国籍を選んでほしいと思います。


いろいろな考え方の人がいるので、どれが「自然な考え方」かは、判定が難しいようですが、親の希望よりも子どもの意思を尊重するかどうかという個人の価値判断の問題で論じれば確かにさまざまです。しかし、国籍は親子関係を基に考えているのが各国の国籍法の一般的なあり方であり、「親子関係とは全く別もの」とはどの国も考えていません。親の国籍を子が承継・維持することが「自然な考え方」と少なくとも国籍法をつくった立法者の意思からは推定できます。血統主義の場合は、もちろんですし、父親の血統だけを受け継ぐのはよくないとして、父母両系を自然な考え方と多くの国は考えているのだと思います。一方、生地主義の国も、国外で国民から生まれた子どもがどうして親の国籍を取得できないのかという問題が生じて、多くの生地主義国は血統主義の要素もあわせもっています。また、「本人にとっていち> ばん都合のいい国籍を選ぶ」結果、親が子どもの重国籍の取得と保持を要求するのが、国際結婚を考える会などの重国籍要求運動の1つの要素でしょう。

それと、どこか別のところでの話ですが、社会契約というのは、あくまでも説明のためのフィクションであって、後天的に帰化・届出により国籍を取得した人以外は、国籍を契約によって取得したわけではありません。親子関係か出生地によって、本人の意思が介在することなく、国籍を取得している人が大多数ですので、国籍を契約で
説明しない方が現実的です。ちなみに、ロックは、キリスト教の再洗礼になぞらえて、国籍取得の意思表示を後天的にすべての国民がすべきとの考えでしたが、そのような国はどこにもありません。

おっしゃるとおり、「フィクション」であり、原理です。しかし、「現実的」ではない(現実に実現されていない)からと言って否定されるべきものではありません。そもそも「治者と被治者の同一性原理」ですら、現実に実現させることは不可能です。しかし、この原理を使って現実を変えていこう、この原理にできるだけ近づけようする試みがなされているではありませんか。原理原則がなかったら、現実を批判することもできません。だから、私は原理原則を重視するわけです。

治者と被治者の同一性の実在のモデルは、アテネの直接民主主義にあると思われます。
そこでは、男性の自由市民が戦争にも行けば、政治の決定者であったわけですが、女性や奴隷など、市民としての権利を認められない人もいました。市民の閉じた体系では、治者と被治者の同一性ですが、広い範囲で考えれば、非民主的な、一方的な被治者が多く存在する世界でした。
アテネの市民を単一国籍者(女性や子どもも含む)に置き換えて、重国政者や外国人を奴隷と同じく、民主主義の体系からはずして、「治者と被治者の同一性原理」なるものを近代民主主義原理として、説明されようとしているように私には思われます。それを原理として現実を変えようとすると、へたをすれば、アテネの時代に逆戻りして、現代の奴隷を生み出すことになるかもしれませんね。
私は、重国籍者も永住市民(定住外国人)も、民主主義の体系に含んだ「治者と被治者の同一性原理」を理念としては考えています。

全くの誤解です。冷静に考えてください。私が「重国政者や外国人を奴隷と同じく、民主主義の体系からはず」す、と述べた箇所をご指摘ください。

今までの議論から考えて、 「治者と被治者の同一性原理」がアテネで実現された民主制を指すものではないことは明らかでしょう。すでに、私は、定住外国人にも「治者と被治者の同一性原理」から「国籍取得容易化」の要請を導きだしているわけです。この点では合意しているのです。

なぜ、突然アテネの例など持ち出すのか理解できません。

「治者と被治者の同一性原理」という民主主義原理からは、生活実態がない母国の国籍をもっている者すなわち、(定住外国人か重国籍者)は、民主主義の担い手にはなれないから、生活実態がない母国の国籍をなくせという意味に理解できます。民主主義の担い手になれない者として、奴隷や女性をアテネの民主主義は考えていました。

あなた独自の「国民」民主主義は、女性は国民として民主主義の担い手になれるが、定住外国人か重国籍者が、住んでいる国の民主主義の担い手になれないことをいいたいのでしょうね。

シュミットなどの古い「国民」民主主義は、定住外国人は、住んでいる国の民主主義の担い手になれないことをいうだけで、重国籍者については何も書いていません。

民主主義は、人民による支配という定義の方が一般的であり、「治者と被治者の同一性原理」は、アテネの民主制のように直接民主主義を原理的に要請します。間接民主主義の現状にあって、「治者と被治者の同一性原理」は、もともと矛盾した要素をもっていて、現状に則さない部分をもっていることを指摘する意味と、人民なり、被治者の範囲を狭く考えていることを理解する上で、インパクトがあり、アテネの奴隷の例は、欧米の論者の場合、することもあります。






また、別の点ですが、国家への忠誠義務という問題の理解について、かつての君主制では君主への忠誠義務であり、二人の主君に仕えることはできないとして、重国籍は認められないとされましたが、今日の忠誠は、憲法への忠誠という形が多く、名前の上では王への忠誠となっていても、法的な中身は、国の憲法及び法令を遵守するということ以上のものはだんだんなくなってきているのだと思います。
そこで、憲法や法令が戦争や兵役を定め、その規定にしたがって戦闘参加やその支援も義務づけられる国なら、そのことも忠誠義務の中身に入る場合もあるのでしょうが、日本では入らないというのが私の意見です。